ことば百科

日本語の修辞法ーレトリック
ことばを効果的に使って、美しく、また適切に表現する技術のひとつに修辞法(レトリック)があり ます。ここではその歴史をはじめ、日常よく使われるもの、また日本の古典にみられる特殊なものに ついて取り上げ説明します。

3, 修辞法

  1. 直喩(ちょく‐ゆ)(明喩)
  2. 隠喩(いん‐ゆ)(暗喩)
  3. 換喩(かん‐ゆ)
  4. 提喩(てい‐ゆ)
  5. 対義結合
  6. 逆説
  7. 緩叙法(かん‐じょ‐ほう)
  8. 反語法
  9. 誇張法
  10. 列叙法(れつ‐じょ‐ほう)
  11. 対照法
  12. 用語転換法

 日本語で「修辞法」という場合、通常それはレトリックの全領域を意味するのではなく、第3の「修辞」部門のみをさす。これは明治期に移入されたレトリックが、たいていその方向のものだったからである。伝統的なレトリックでは、200近くの「ことばのあや」を分類しているが、ここでは、比較的日常表現に使われやすいものに限って説明してみる。

直喩(ちょく‐ゆ)(明喩)

 ある物事Xを表現するのに、それとは別の物事Yとの間に類似性を見いだし、「XはYのようだ」のような形であらわす比喩。XとYを結びつけることばとしては、「ような(だ)」以外に、「みたいな」「そっくりだ」「思わせる」などが使われる。この型の比喩の特徴としては、比喩であることを明示する指標をともなっているために、かなり自由で創造的な表現が可能になるということである。〈最後に会った時、彼はまるで狡猾(こう‐かつ)な猿のようにひどく赤茶けて縮んでいた。〉(村上春樹『風の歌を聴け』)

隠喩(いん‐ゆ)(暗喩)

 ある物事 X を表現するのに、それと類似した別の物事 Y を代わりに用いる比喩。直喩とちがって、比喩であることを明示する指標をもっていないため、文脈その他によって、聞き手に、それが比喩であることを悟らせなければ、意味が通じなくなる。例えば、〈私は、昔、文学青年であるとともに、音楽青年でもあつた。文学熱の方が高まつて来て、(のこぎり)の目立ての方を断念した後は、……〉(小林秀雄「ヴァイオリニスト」)という文章の場合は、ヴァイオリンについて述べてきた文章に続くものであるから、「鋸の目立て」という隠喩は有効に機能する。しかし、これをいきなり「私は、昔、鋸の目立てを少々やつたことがある。」などと書いたら、読者は完全に誤解する。

 なお、隠喩が引き延ばされて語句より大きい単位となったものを諷喩(ふう‐ゆ)と呼ぶことがある。「ことわざ」や「寓話(ぐう‐わ)(譬(たと)え話)」などはその一種である。

換喩(かん‐ゆ)

 ある物事 X を表現するのに、それと縁故のある別の物事 Y を代わりに用いる比喩。換喩には、「私はゴッホの複製を何枚か持っている。」(人でその作品を)、「酔っ払い運転でパトカーに捕まった。」(乗り物で乗り手を)などのように、日常表現に組み込まれて、ほとんど比喩であることを感じさせないものもある。比喩を成り立たせているのはあくまでも「縁故」であって、直喩や隠喩のように「類似」ではない。たとえば、〈……急に音楽が恋しくなつた。忌(い)ま忌(い)ましいが、バス・タオルに頼むことにした。〉(小林秀雄「蓄音機」)という文章がある。これだけでは何のことか分からないが、少し前に、五味康祐が、ステレオの性能を確かめるために、スピーカーの前にバス・タオルを垂らして振動を観察したというエピソードが紹介されているから、「バス・タオル」が誰をさすのかが知れるのである。これは縁故による結びつきであり、決して五味康祐がバス・タオルに似ているのではない。

提喩(てい‐ゆ)

 ある物事 X を表現するのに、それと意味的包含関係にある別の物事 Y を代わりに用いる比喩。提喩にも、「アルコール」で「酒」を、「御飯」で「食事」をさすなどのように、普通の日常表現になっているものがある。〈学校の教師をしてゐて、一軒ぢゃ飯が食へないもんだから、三軒も四軒も懸け持ちをやつてゐるが、……〉(夏目漱石『それから』)。この場合の「飯が食へない」は、「生活できない」を意味する提喩である。

対義結合

 本来ならば意味的に対立する二つの語、X、Yを結びつけた表現形式。「公然の秘密」「有難(あり‐がた)迷惑」「うれしい悲鳴」などの慣用表現や、「急がば回れ」「負けるが勝ち」などのことわざがこれにあたる。〈一個の野蛮人としての知性。一人の大常識人としての天才。〉(三島由紀夫「小林秀雄頌」)

逆説

 通念に反するように(あるいは自己矛盾的に)見えながら、ある意味での真実を感じさせる言説。〈われわれは、人との付き合いにおいて、長所よりも短所によって気に入られることが多い。〉(ラ・ロシュフコー『マクシム』)〈救世主など来はしないといふ徹底的な絶望からしか、救世主の夢は生まれなかつたでせう。〉(福田恆存「日本および日本人」)

緩叙法(かん‐じょ‐ほう)

 ある物事を印象づけるために、それと反対の物事を否定する表現方法。たとえば、「その洋服いくらした?」と尋ねられて、「高かったよ」と直接的に言うのではなく、「まあ、安くはなかったね。」と答えるようなやり方がこれにあたる。〈何故こんな運命になつたか判からぬと、先刻は言つたが、しかし、考へやうに依れば、思ひ当たることが全然ないでもない。〉(中島敦『山月記』)。緩叙法と単なる婉曲(えん‐きょく)表現とのちがいは、文脈によって判断しなければならない。たとえば、「では、あなたは業者から接待を受けたことはないのですね?」と聞かれて、「いえ、全くないわけじゃありません。」などと答えるのは、「あります」を弱めて言った婉曲表現である。

反語法

 ある物事を印象づけるために、それと反対の意味を持つことばを(真意は逆であることが聞き手に分かるように)使用する表現方法。いわゆる皮肉は、この反語法の一種である。〈此の稀代(き‐だい)の篤学の氏は、オギャアと生まれて以来このかた、一篇も論文を書いていないからである。学会発表および講演の、計二篇の筆録しか世に残していない純潔は、真性学者の模範であろう。〉(谷沢永一『巻末御免』)

誇張法

 ある物事を印象づけるために、その程度を実際以上に大きくあるいは小さく表現する方法。〈私の出会ったドイツ人女性など鬼をもひしぐ大女でありながら、わずかの揺れに歯の根も合わず腰もぬけ真青になって今にも死なんばかりであった。〉(会田雄次『リーダーの条件』)

列叙法(れつ‐じょ‐ほう)

 ある物事を印象づけるために、さまざまなことばをつみかさねてそれを表現する方法。〈手紙が着いた日の夜、彼はそれを携えて私を訪れ、私の用語と文脈の曖昧(あい‐まい)・朦朧(もう‐ろう)・意識的と無意識的と両様の誤魔化し・勢い込んだ見当外れ・読みの不足・無意味な同義反復・滑稽(こっ‐けい)な形式論議・ナンセンスな分類癖等々を、一刻も休みをおかず耳が破れんばかりの大音声で峻酷苛烈(しゅん‐こく‐か‐れつ)に糾弾し続けた。〉(谷沢永一「開高健論」)

 なお、単なる語の羅列ではなく、徐々に勢いを強めながら最高潮に盛り上げていくやり方を漸層法(ぜん‐そう‐ほう)と呼ぶ。〈人は最初に遠く死を望み見て、恐怖して面(おもて)を背ける。次いで死の廻りに大きい圏を画いて、震慄(しん‐りつ)しながら歩いてゐる。その圏が漸(やうや)く小さくなつて、とうとう疲れた腕を死の項(うなじ)に投げ掛けて、死と目と目を見合はす。そうして死の目の中に平和を見出すのだと、マインレンデルは云つてゐる。〉(森鴎外「妄想」)

対照法

 二つの意味的に対立する物事、X、Yを並べることにより、両者の性質を鮮明に対比させる表現方法。〈イデオロギーの政治的エネルギーは底辺から立ちのぼり、政策への方向づけは頂点から下降する。したがつて、底辺に支えられない頂点は政治的イデオロギーとしては空虚であるが、反対に頂点の合理的指導性を欠いた底辺は盲目である。〉(丸山真男『ナショナリズム・軍国主義・ファシズム』)。対照法とよく似たものに対句法(つい‐く‐ほう)がある。これは、対照法が意味的に対立する物事を並べるのに対して、同じ形式、同じ長さのことばを並べる表現方法である。したがって、並べられる事がらは、必ずしも意味的に対立しない。〈涙は誠意なりとぞ、猿はよく啼(な)く者也。血は熱心なりとぞ、蚊はよく吸ふ者也。〉(斎藤緑雨『霏々剌々』)

用語転換法

 文体が単調にならないように、同一表現の繰り返しを避け、同じ(似たような)意味をもつ他の表現を使用する方法。〈ぼくが読者諸君にお願ひするのは、さういふ龍之介の心を味はつていただきたいといふ一言につきます。「羅生門」や「偸(ちゅう)盗」に人間のエゴイズムを読みとつてみてもはじまりません。「或日の大石内蔵助」に英雄や有名人の日常性を教へられたと感心してみてもはじまりません。「地獄変」も激しい芸術至上主義などといつてかたのつくものではない。「手巾」や「煙管」にいぢのわるい人間観察を学んでみてもしかたないのです。「枯野抄」は芭蕉の弟子たちが敬愛する師の死を前にして演ずる醜い自我意識の心理的葛藤を描いたものだと解釈してもつまらないのです。〉(福田恆存「芥川龍之介 II」)

(『ことばの知識百科』三省堂刊より)
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