ことば百科

日本語の修辞法ーレトリック
ことばを効果的に使って、美しく、また適切に表現する技術のひとつに修辞法(レトリック)があり ます。ここではその歴史をはじめ、日常よく使われるもの、また日本の古典にみられる特殊なものに ついて取り上げ説明します。

2, レトリックの歴史

  1. レトリックの誕生
  2. レトリックの体系の変化と消滅
  3. レトリックの復活

レトリックの誕生

 記録によれば、レトリックがひとつの技術体系として最初に定式化されたのは、紀元前5世紀のことである。紀元前467年、シチリア島は無数の訴訟合戦で沸き返っていた。この年、住民の土地を強制的に収用してきた僭主(せん‐しゅ)が追放され、人びとは奪われた土地を取り戻すために民事訴訟の手続きを始めたのである。彼らの所有権を証明する「文書」は何も存在しなかったから、頼るべきものは申し立ての論の「説得力」のみであった。そこで彼らは「説得」のための技術を習得する必要を感じ、それを伝授してくれる人を求めた。レトリックは、このような時代の要請によって誕生したのである。

 最初のレトリックの教師の一人であるコラクスは、法外な謝金をとって、ひとつの「秘術」を伝授していた。ある順序で弁論を行えば成功まちがいなしというのである。その「秘術」とは、実は「序論―本論(論証)―結論」であった。これは現代のわれわれから見れば笑い話であるが、当時にあっては決してそうではない。頭に思いつくままに喋(しゃべ)り散らしていた人がほとんどだった中で、このような「方法」を身につけた人の話は、際立って明快で説得的だったにちがいない。レトリックも一種の「科学」であるから、こういう幼稚な技術から始まって、次第に精密の度を加えていったのである。

 シチリア島に生まれたレトリックは、やがてギリシア全土に広まっていった。当時のギリシアは、直接民主制の社会であったから、そこでの弁論の力の果たす役割は大きく、人びとは先を争ってこの技術を教わろうとした。

 レトリックの教師はソフィスト(智者)と呼ばれ、彼らの商売は大繁盛し、巨万の富を築く者も現れた。しかし、ソフィストの中には、金銭のために、詭弁(き‐べん)を使って人をだます技術を教える者がいて、それが哲学者プラトン(前427―347)の厳しい批判を受けたことから、ソフィストということばは後に「詭弁家」という悪い意味で使われるようになる。

 ギリシアのレトリックは、哲学者アリストテレス(前384―322)の『弁論術』(前333―322?)全三巻によって一応の完成をみたと言ってよい。この浩瀚(こう‐かん)な書物は、現存する最古のレトリックの教科書でもあり、現在に至るまでこれを越える研究は現れていないという評価もあるほどの、高度な内容をもったものであった。その後、紀元前2世紀の半ばに、ギリシアが新興国ローマに制圧され、その一属州となるにしたがって、レトリックはローマ文化圏に移入される。

 レトリックの研究と教育は、ローマにおいても隆盛を極め、キケロ(前106―43)の『弁論家について』(前54)や、クィンティリアヌス(35―95?)の『弁論家の教育』(95?)などのすぐれた成果が次々と現れた。

 ここで、古代のレトリックの体系について簡単に説明しておくと、その標準的体系は、次の五つの部門から成り立っていた。

〔1〕「発想」
主題について、可能な説得の方法を探し出す。
〔2〕「配置」
〔1〕で得られた内容を、適切な順序で配列する。
〔3〕「修辞」
効果的な言語表現を工夫する。
〔4〕「記憶」
よどみなく弁論を行うために、その内容をあらかじめ記憶する。
〔5〕「発表」
弁論を効果的にするために、発声、身振りなどを工夫する。

 今日では、レトリックと聞くと、〔3〕の「修辞」のみを連想しがちであるが、これは近代以降有力になった傾向であって、古代のレトリックで最も重視されたのは、〔1〕の「発想」であった。アリストテレスの『弁論術』でも、全体の三分の二は「発想」の研究にあてられている。なお、〔4〕、〔5〕のような部門があるのは、当時のレトリックは何よりも「弁論術」であったからである。

レトリックの体系の変化と消滅

 レトリックはその後、学校教育における最重要科目として、西洋の社会に継承されていくことになるが、その体系には大きな変化が生じた。まず、(印刷技術の発達などにより)レトリックの対象がしだいに話しことばから書きことばに移行するにしたがって、「記憶」、「発表」部門が不要となる。さらに16世紀になって、フランスの人文学者ペトルス・ラムス(1515―1572)が、教育改革の一環として、「発想」と「配置」を弁証術(論理学)に所属させることを主張し、それが広く受け入れられたことから、レトリックには「修辞」部門のみが残されることになった。それでも、研究者はこの狭い領域に精力を集中させ、多くの、極めて精巧で緻密(ち‐みつ)な研究が生み出されていった。

 しかし、これはレトリック衰亡の始まりでもあった。人びとはもはやそれを単なる「ことばの飾り」の技術としてしか認めなくなったのである。また、その研究も、厳密さにこだわるあまり、いたずらに煩瑣(はん‐さ)な「ことばのあや」の分類にふけったり、また無味乾燥な句読法や綴字(てい‐じ)法の規則を作ることにのみ関心を向けるなど、しだいに形骸(けい‐がい)化していった。かつての最重要科目であったレトリックは、いまや嘲笑(ちょう‐しょう)の対象となり、人びとはそれをもてあましはじめた。19世紀の終わりから20世紀の初めにかけて、レトリックは「教育的意味を失った」という理由により、教育課程から外されていく。二千数百年にわたって西洋の教育を支配してきたレトリックは、こうして消滅したのである。

 皮肉なことに、明治維新を迎えた日本で西洋レトリックの本格的な紹介が始まった時期(明治十年代)は、まさにこのレトリックの断末魔の時であった。当然ながら、そこで紹介・翻訳されたのは、形骸化し、俗流化した三流・四流の書物にすぎなかった。その後、五十嵐力『新文章講話』(明治42)や、佐々政一『修辞法講話』(大正6)等の、日本人の手になる立派な業績も現れはしたが、結局、西洋のそれを追いかけるように、日本のレトリック研究も消滅していった。

レトリックの復活

 だが、20世紀半ばすぎから、レトリックは再び研究者の関心を集めるようになる。この、レトリックの「復活」は、主に3つの方向からなされている。

 第一は、大学の作文教師、スピーチの教師によるもので、レトリックの「発想」・「配置」・「修辞」部門の理論を、作文教育、話し方教育に応用しようとするものである。第二は、言語学者、記号論学者によるもので、「修辞」部門、とくに比喩(ひ‐ゆ)の機能の分析である。第三は、哲学者、論理学者によるもので、「発想」部門の理論を応用した、議論法の研究である。

 このようにして、最近のレトリック研究は、しだいに「ブーム」と呼んでいいほどの状況を呈するようになり、現在に至っているのである。

(『ことばの知識百科』三省堂刊より)
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