ことばパティオ

第18回 「置き換え」と「翻訳」


西江 雅之(にしえ まさゆき)
1937年東京生まれ。専門は文化人類学・言語学。現在、アジア・アフリカ図書館館長。著書に『花のある遠景』(福武書店)、『伝説のアメリカン・ヒーロー』(岩波書店)、『「ことば」の課外授業―“ハダシの学者”の言語学1週間』(洋泉社)、『異郷日記』(青土社)など。


   「置き換え」と「翻訳」。このふたつが混同されて論じられる場面をよく目にする。しかし、これらは基本的には異なる話題である。

   「置き換え」は、ある言語で意味要素(単語や句や文など)を与えられたとき、ほかの言語でそれに相当する基本的な意味を示すことである。その場合の「意味」というのは、聞き手ひとりひとりがその場で実感できるようなものではない。たとえば、「さっき、背の高い女性が可愛い犬を連れていた」と言った場合、「さっき」というのは何分前のことなのか、その女性はどれくらい背が高いのか、可愛い犬はどんな種類の犬なのか。そうしたことは、聞き手には正確にはわからない。「あら、そうですか」と答えたとしても、本当のところは、正確に理解しているわけではない。それにも関わらず、その話が理解できたと感じるのは、話者同士が「共有可能な部分」を持っているからである。

   ある言語の話者たちが共有する意味。それは、「コード」上の意味とも言えるものである。言語の場合、「コード」とされるのは、「音声単位」、「意味単位(単語など)」、「組み立て規則(仕組み、構造、文法)」という、「言語の三要素」のありかたを指して言う。世界の如何なる言語であろうとも、この三要素を備えている。そして、同じ言語の話者の間では、これらの要素が共有されている。

   こうしたコード上の「意味」が、一番身近に見られる例が辞書である。二言語を対象とする辞書、たとえば日本語と英語の辞書ならば、「本」は「book」、「兄」は「elder brother」という説明がなされるだろう。それは、一種の「置き換え」である。互いの言語の単語の数は揃わなくてもよい。また、日本語だけを対象とする「置き換え」の場合、たとえば「本」という項目を見れば、「文字や絵などを印刷した紙を、ある程度の厚さに閉じたもの」などと、置き換えられるかもしれない。その置き換えは、話者が一般に共有するコード上の意味であり、「本」という単語が具体的な場面では持ちうるさまざまな意味は含まれていない。たとえば、本屋に並べられた実用書の類を見て、文学青年が「こんなの本じゃないよ」などと言う場合の「本」が持つ意味とは異なるのだ。

   他方、「翻訳」は、ある人物がある言語で表現したことを、できるだけ原文を生かしながら別の言語で表現し直すことである。

   たとえば、「義理と人情で世間を渡る」といった歌詞を数10行も使って説明したならば、それは翻訳とはいえない。翻訳では、原文の長さや行数に合わせることが重要である。また、言語の背後にある文化的な意味背景への配慮も欠かせない。それぞれ異なる文化背景を背負った言語の間で、完全な翻訳は原理的に不可能である。しかし、種々の制約の中で、翻訳者はその不可能な行為に挑戦するのである。

   小説であれば、原作の話題の進行順序や句読点の位置などを、できるだけ生かすことが必要だ。映画の字幕の場合、口数の多いイタリア人の会話をすべて正確に「置き換えて」しまったならば、5秒間のシーンの画面は文字でびっしり埋まってしまうだろう。観客は速読術の達人ではない。そのような場合は、実際の会話は長くても、一般の人々が普通に見て理解できる程度の単語数と行数にまとめて翻訳することが必要である。即時通訳や漫画本の翻訳なども同様に、与えられた時間、空間(スペース)、順序などの制約の範囲内で、いかに原文の表現世界に近づけるのかに向けて努力する。

   翻訳とは、単なる「置き換え」ではなく、種々の制約の中で、翻訳者が原作者の表現世界に迫るべく行う、一種の「演奏」なのだともいえよう。

   「置き換え」と「翻訳」には、このような違いがある。いかなる内容であっても、それを別の言語に「置き換える」ということと、「翻訳する」ということは、別の作業なのである。

   「今夜は、くさやを肴(さかな)に晩酌といきたいものだ」という日本語の文章を、ロシア語にでも、スワヒリ語にでも、「置き換える」ことは可能である。ただし、その置き換えには何行も必要とするだろう。しかし、それが小説の中の一文である場合は、翻訳に数十行もかけることは許されない。
(2009年1月15日)