ことばパティオ

第27回 「先生」という言葉の語感


石黒 圭(いしぐろ けい)
大阪府生まれ。神奈川県出身。一橋大学社会学部卒業。早稲田大学大学院文学研究科博士後期課程修了。現在、一橋大学留学生センター・言語社会研究科准教授。専門は文章論。主な著書に『よくわかる文章表現の技術Ⅰ―表現・表記編― 』 『同Ⅱ―文章構成編―』『同Ⅲ―文法編―』 『同Ⅳ―発想編―』『同Ⅴ―文体編―』(いずれも明治書院)、『日本語てにをはルール』(すばる舎)、『文章は接続詞で決まる』(光文社新書)。



   私が前から気になっている言葉に「先生」があります。

   職業柄、「先生」と呼ばれることが多いのですが、いまだになじめません。「先生」と呼ばれると、なぜ違和感を覚えるのか。自己分析をしてみたところ、思いあたる理由が三点ありました。

   第一の理由は、自分に「先生」と呼ばれるだけの器量がなく、落ち着かないということです。以下は、夏目漱石『坊っちゃん』の主人公が初めて教壇に立ったときの感想です。

初めて教場へはいって高い所へ乗った時は、何だか変だった。講釈をしながら、おれでも先生が勤まるのかと思った。生徒はやかましい。時々図抜けた大きな声で先生と云う。先生には応(こた)えた。今まで物理学校で毎日先生々々と呼びつけていたが、先生と呼ぶのと、呼ばれるのは雲泥の差だ。<中略> 先生と大きな声をされると、腹の減った時に丸の内で午砲(どん)を聞いたような気がする。
夏目漱石『坊っちゃん』

   中国語の「老師」もそうですが、「先生」というのは「先に生まれた」と書きますので、私の場合、年配のかたから「先生」と呼ばれると、とくに居心地が悪くなります。

   第二の理由は、「先生」という言葉が便利なので、とりあえず「先生」と呼ばれているという感覚です。以下は、夏目漱石『それから』からの引用です。

「先生、大変な事が始まりましたな」と仰山な声で話しかけた。この書生は代助を捕まえては、先生々々と敬語を使う。代助も、はじめ一二度は苦笑して抗議を申し込んだが、えへへへ、だって先生と、すぐ先生にしてしまうので、やむを得ずそのままにして置いたのが、いつか習慣になって、今では、この男に限って、平気に先生として通している。実際書生が代助の様な主人を呼ぶには、先生以外に別段適当な名称がないと云うことを、書生を置いてみて、代助も始めて悟ったのである。
夏目漱石『それから』

   学生との関係性で「先生」と呼ばれるのならまだしも、直接教えたことのない人から「先生」と呼ばれると、実感の伴わない言葉の軽さのようなものを感じます。

   第三は、宗教上の理由です。私はキリスト者なので、「あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ」(マタイによる福音書23章8節 )という言葉に忠実でありたいと願っています。ところが、最近、以下の田山花袋『蒲団』に描かれているように、「先生」と呼ばれ、ちょっぴり偉くなったような気がする自分を意識するようになりました。

これが―この孤独が芳子によって破られた。ハイカラな新式な美しい女門下生が、先生! 先生! と世にもえらい人のように渇仰(かっこう)して来るのに胸を動かさずに誰がおられようか。
田山花袋『蒲団』

   その気持ちがエスカレートすると、相手に「先生」という呼び名を強要する危険性が生まれます。以下の二葉亭四迷『平凡』には、「先生」を強要されて悔しく思う主人公が出てきます。

「それから、も一つ言うて置きたいのは我々の呼び方じゃ。もう君の年配では伯父さん伯母さんではおかしい。これは東京の習慣通り、やはりわしの事は先生と言うたら好かろう。先生、この方がご面会を願われます、先生、お使に行ってまいりましょう― 一向おかしゅうない。先生というてもらおう。」
「は、承知しました。」
二葉亭四迷『平凡』

   芥川龍之介は『侏儒の言葉』のなかで、「文章の中にある言葉は辞書の中にある時よりも美しさを加えていなければならぬ。」と述べました。しかし、辞書の進化とともに、今回取りあげた文学作品に見られるさまざまなニュアンスの「先生」のような、実際に使うときの微妙な語感を伝える辞書ができるかもしれない。そんなことを夢想しています。
(2009年10月1日)