ことばパティオ

連載(全4回) 「辞書を知ろう」最終回


連載(全4回) 「辞書を知ろう」 町田 健 第4回 世界各国の辞書に親しむ


   母語であろうと外国語でろうと、言語を正しく習得するためには辞書が必要不可欠であることは言うまでもありません。

   世界には6千とも7千とも言われるほど数多くの言語がありますが、もちろん、そのすべてについて辞書がつくられているわけではありません。数十人あるいは数百人の話者しかもたない、「絶滅の危機に瀕した言語」と呼ばれる言語が、世界の言語のうちの恐らく半数以上を占めるものと思われます。これらの言語を学習するために役立つ辞書がつくられ、しかも出版されていることなど、まず期待できません。

ですから、自分が関心をもっている言語の語彙を収めた辞書が存在して、しかもそれを容易に手にすることができる環境というのは、どちらかと言えば幸運なことなのだと思うべきでしょう。

   日本にいる私たちが関心をもつようになる言語は、大抵の場合、何百万、何千万人という話者がいて、長い歴史と文化を背景とする言語です。こうした言語であれば、昔から立派な辞書が存在するのが普通です。私たちの日本語でも、平安時代の『類聚名義抄』や室町時代の『節用集』以来、各種の優れた辞書がつくられてきています。

   英語やフランス語をはじめとするヨーロッパ近代諸語についても同様です。ただ、ルネサンス期までのヨーロッパで書き言葉として用いられてきたのはラテン語だったので、近代諸語の辞書が編纂され始めたのは、ようやく17世紀頃になってからです。そう考えてみると、日本語は、文学作品だけでなく辞書についても、ヨーロッパ近代諸語より長い伝統をもつのだということが分かります。

   ただ、日本語や英語のように億単位の話者を擁する言語だけが、充実した辞書をもっているというわけでもありません。日本ではそれほど知られておらず、話者数も100万程度の「中言語」とでも呼べるような言語であっても、充実した辞書が存在することが珍しくありません。三省堂の『世界のことば・辞書の辞典」』(石井米雄編)を読んでみると、確かにそれが事実であることがよく分かります。

   たとえば、黒海とカスピ海の中間にグルジアという国があります。大相撲力士の黒海や栃ノ心の出身国として、相撲ファンであれば名前ぐらいは聞いたことがある国です。ここで使われているのは、国名と同じ「グルジア語」で、話者数は400万程度ですが、17世紀以来の辞書の歴史があります。グルジア科学アカデミーによる『グルジア語詳解辞典』全8巻は、14万語もの単語と豊富な用例を所収した、大言語のものに劣らない堂々とした辞書です。

   グルジア古語の辞典である『古グルジア語辞典』も出版されており、この言語の歴史的な変遷も辿ることができます。音韻や文法の面で特徴的なこの言語そのもの、あるいは多数の民族が入り乱れて形成されてきたこの国の歴史に関心をもつ人間がいたとしても、その関心に十分に応えることができるだけの辞書が用意されているのです。

   また、東南アジアにラオスという国があります。人口は600万程度ですが、鉄道がなく特筆すべき産業もない、海外からの資金や技術の供与に依存する、貧しい国です。一般の家庭に辞書が備えられていることも稀なのだそうですが、それでもきちんとした辞書は存在します。ラオスはフランスの植民地だったため、フランス語との対訳辞書は何点か出版されています。

   近年では、ラオス語による国語辞典が3種類編纂されており、いずれも2万語から3万語程度の単語を収める、本格的な辞書です。上にあげたグルジア語に比べると、やはり量と質の両面で見劣りはします。それでも、この言語を習得する意欲をもつ人が参考にすることができる充実した辞書が、相当数、刊行されていることは間違いありません。

   単語とその用例を含めて考えると、ひとつの言語の全体的な姿を我々に示してくれているのが辞書です。優れた辞書が多数存在しているということが、その言語によって実現された文化の力の指標となると考えてもいいと思います。誇るべき辞書をもつ言語が世界にたくさんあるというのは、言語に深い関心をもつ人間にとっては実に幸福なことです。

   いくつもの言語に熟達することは困難だとしても、各国語の辞書をあれこれと参照すれば、人間を人間たらしめている言語の妙味に少しでも接することができるのではないでしょうか。 

(2009年3月16日)




町田 健(まちだ けん)
名古屋大学大学院文学研究科教授。専門は言語学、とくに意味論、類型論。著書に、『言語学が好きになる本』(研究社)、『コトバの謎解き ソシュール入門』(光文社)、『言語世界地図』(新潮社)など。

「辞書を知ろう」(全4回) これまでの記事
第1回 言語習得のポイントは辞書にあり。
第2回 「よい辞書」と「悪い辞書」を見極める方法
第3回 辞書の正しい使いかた
第4回 世界各国の辞書に親しむ