ことばパティオ

連載「世界ことば巡り」 第7回(全12回)


連載 「世界ことば巡り」 西江雅之 第7回 「日常的な表現」の難しさ


   いつだったか、西アフリカのカメルーンのある村の調査から戻ってきた知人が、そこでは若い美人を褒めるときに、「あなたはまるで牛の糞(くそ)だ」と、心を込めて言うものだと教えてくれた。

   わたしが、「それは、その女性が牛の糞のように、ふくよかだということなのかなぁ」とつぶやくと、そばにいた女性が「あら汚い」と顔をしかめた。

   確かに日本では、糞と言えば汚いものだと相場が決まっている。しかし、たとえばわたしが暮らしたことのある東アフリカには、こねた牛糞でカマボコ兵舎型の家を造ったり、色違いの牛糞を丸めて小さな玉を作り、「碁目並べ」のような遊びを楽しんだりする人々もいる。「糞」は一概に不潔なものではない。

   わたしは、「あなたはまるで牛の糞だ」という褒め言葉の解釈について、いろいろと思いを巡らしてみたが、予測はすべて外れていた。この言葉の意味は、豪華に輝く金蝿(キンバエ)が牛の糞にわっと群がるように、めかしこんだ男たちが若い美人のそばにどっと集まってくる様子を表現したものであった。

   その後、わたしがケニアにいたとき、仲の良かったマサイ人に、「あの娘はまるで牛の糞だ」と試しに言ってみた。彼らも牛の遊牧民で牛糞には慣れ親しんでいるはずなのだが、その友人はキョトンとしているだけだった。

   ある言語では「日常的な表現」が、ほかの言語ではまったく異なる意味を持ち、思わぬ印象を与えるという例は意外に多い。

   たとえばフランス語では、行商する八百屋のことを「四つの季節の商人」と言う。日本語に直訳すると、どこか詩的な表現で、さすがフランス人だと感心する人もいるのではないだろうか。だが逆に、日本語の「八百屋」をフランス語に直訳すれば、「八百の物を売る店」のようになる。それに感心するフランス人もいるだろう。

   このように、一見、簡単そうに見える日常的な表現にも、文化を異にする者にとっては解釈に一考を要するものが少なくない。

(2009年8月17日)
ことば巡り
マサイの女性たち。
カメルーンのある村ならば「牛の糞」のように美しいと言われるだろう。




西江 雅之(にしえ まさゆき) 1937年東京生まれ。専門は文化人類学・言語学。現在、アジア・アフリカ図書館館長。著書に『花のある遠景』(福武書店)、『伝説のアメリカン・ヒーロー』(岩波書店)、『「ことば」の課外授業―“ ハダシの学者”の言語学1週間』(洋泉社)、『異郷日記』(青土社)、 『アフリカのことば』(河出書房新社) など。


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